思索 | “飲料にならぬレモンをしぼる”

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現代詩を読み漁るあの日々

【注意】以下は、2013年8月22日に旧ブログへ投稿した記事です。

[現在からのコメント]

変わり目のときほど、自分の魂の思いが言葉にならないときがあります。

書くことが生きることである自分にとって、書くことでしか自分を最も表現できないし、けれど、書くことは究極的に何も表現できないと痛感するのです。

8-21 満月(旧・中元)

20代前半、まだ京都で生活していた頃、集中して現代詩を読んでいました。

いまでも詩を書くときだけでなく広く文章を綴るときにもっとも影響を受けていると自分で思っているのが、詩人で本の装丁家だった吉岡実さんです。

生活していると、半年のときもあれば1年半ぐらいのときもありますが、ふと前日と今日を境として「意識」が変わる瞬間があります。意識が切り替わる、とでもいうか、意識のクリアさが増す、とでもいうか。

物心ついたことからその瞬間がたまにやってくることを感じていて、日付までは覚えていませんが、高2の時、学校から家に帰ったら突然、意識の風が変わったな、とか小学3年生のとき、梅雨時の教室で花瓶の白百合の匂いが漂ってきて不意に知覚の次元が上がったな、とか、そのときどきの場面/光景は記憶として残っています。

吉岡実の詩

ちょうど今月前半もそんな瞬間を迎え、いまだにその余韻が残る日々なのですが、そういう期間に体の刻む言葉のリズムとしていつも皮膚に立ち昇ってくるのが、吉岡実さんの詩なのです。

すべての感覚を受容して、やがて意識として認識するとき、それは世界を言葉で分節化しているといいます。

その言葉を入れる箱は薬箪笥のひとつひとつの引き出しの大きさがそれぞれ異なって音符となり、言葉のリズムを奏でるように、気づけば吉岡実さんの音律にかなり近くなっているのに気づくのです。

村にきて
わたしたち恋をするため裸になる
停る川のとなりで
眠らぬ馬をつれだす
(中略)
食物にならぬ四つの腿の肉をやき
飲料にならぬレモンをしぼる
小屋の主人は行方不明
マダムは心中未遂
子供は街の学校の便所のなか
にぎやかな運命
わたしたちここに停るもの
わたしたち裸のまま
火事と同時に消えるもの
多勢の街の人々が煙を見にくる

(吉岡実「牧歌」より―― 続・吉岡実詩集 (現代詩文庫)