生煮えの「日本の今」を頬張り続ける、私

日本がますます壊れていく。
この国がどんどん悪い方向に向かっている。

漠然とした感覚であっても、そう悲観的にならざるをえない現状のなか、このままこの社会が行き着く果てはどうなるのだろうか。そう肌で感じている人も少なくないだろう。

ただ、ギリシャだったかローマだったか、古代の落書きに「今の若者はダメだ」と記されているように、社会が悪化していくという感覚も、年齢が上がるに連れて自然に生まれ出るものなのだろうか。

私たちは歴史に学ぶことはできても、過去の人間に問いかけることはできない。問いかけにせよ、それはあくまで自問自答の範囲内で、かつてこの世に存在した無数の人たちの痕跡を体感しながら追憶するしかないからだ。
戦争がない時代。少なくとも国内で内戦や外国からの侵略、戦闘行為がない日本では、それだけで平和であって、この国に生まれて生きるということが無条件で幸せと判断することも間違いではない。

しかし、政治や経済、教育などさまざまな分野で、あまりに稚拙な犯罪やパワハラ、問題の先送り、なんとも骨の通っていない法案の成立など、次々と行われているうち、日本が知らない間に蝕まれていくのと同時に、国家や社会、コミュニティにつながっていって戻ってくるこの自分の身体も浸食されていくような崩壊感覚が内声に響き続けていく。

子供の頃、学生の頃、祖父母やその世代のわずかな知人から、時折「日本はどんどん悪い方向へ向かっている」という警句のようなため息を聞いていた。

今、このため息が果たして加齢によって人間なら誰しも共通して感じる時代の変化へ応じきれなくなる感性の鈍化ゆえだったのか、それとも戦前、戦中、戦後とこの日本の移り変わりを見て来たこと、加えて戦前に教育を受けたという基礎的な経験ゆえなのか、それとも、真実として確実に日本がとてつもない斜陽へと傾いているからなのか。それぞれひとつひとつの要素を峻別して切り離すことはできないし、まして故人に聞いて回ることもできない。

そして今、自分がどうしようもなくため息をついてしまうこの日本の状況を自分の生まれた時代、環境、教育、経済状況、性別などなど、あらゆる要因を一つずつ剥がしていくこともできないわけではあるのだけれど、何とか剥がし続けようとしていなければ、確証のない実感として肌にまとわりつく「日本の今」の私の中の置き場所がまったくなく、生煮えのまま肉を吐き出すことも飲み込むこともできないような窒息感を拭い去れることができないでいる。