知やメディアとの関わりの中で、もっとも大きな転換点となったのは初めてのiPhoneを購入したときだと思う。
「持ち運べる小さなパソコン」と呼ばれてきたiPhoneによって生活は一変した。
インターネットと常時つながる状態が手に入り、i-modeやメールといったそれまでの限定的なWEBとの関係性を超えて、仕事で使っているパソコンの働きとともにブラウザで全世界の情報が検索できるようになり、さらにTwitterやFacebookといったSNSによっていつでもアプリをクリックすれば誰かとつながれる疑似体験が手にはいるようになった。
とくにSNSの恩恵はすさまじかった。
mixiよりもさらに広範囲かつ不特定多数の人たちとオンラインで知り合う機会が増え、ネットとリアルとの境界がますます曖昧となった。
Twitterでは特定の仕事や趣味に関するキーワードで検索すれば、次々と関連するアカウントをフォローすることができる。
タイムラインがどんどん自分と近しい分野、手に入れたい情報で埋め尽くされ、ときにフォロワー同士で相談に乗ったり、情報はもちろん仕事まで依頼されるといった状況にまでなったのは、iPhoneが登場したときの衝撃が日常生活にすっかり浸透した証左と言っていい。
私にとってiPhone以前とiPhone以後は大きな意味を持っている。ただ、iPhoneが生活の中でもっとも身近なツールになったのと同時に、何が日常の世界を変容させたのかはいまいちよくわかっていないのが正直なところだ。
最近、Googleで研修に採用されたマインドフルネスが流行っている。デジタルツールやSNSが人の細胞レベルまでとけ込んでしまったような現代において、瞑想を勧め、慌ただしい日常生活においても意識を自分の内側に集中させることが大切だというマインドフルネスの重要性は大いに評価できる。
ただ、マインドフルネスのような自己の意識に戻り、静謐な時間を取り戻そうというアプローチは禅的考え方や自然との触れ合いに重きを置いてきた東洋、そして日本であれば本来なじみ深いものであるはずだ。
iPhone以前の世界、今のめまぐるしい世界に比べるともっと時間がゆったりと流れていた。いや、時間という自分の意識の余白、空白が人生の中でたっぷりとちりばめられた時代だったというべきかもしれない。
いまや「暇つぶし」などという言葉はすっかり聞かれなくなった。
四六時中、スマートフォンを手放せず、仕事のメールやチャット、SNSチェックが気になる世界に暇を見いだすことなど難しくなっている。
それは無駄を許さない、ショートカットのみが正義とされる時代なのだろう。
最短かつ最善の道以外はまったく解ではないないのだ。
暇をつぶす必要もなく暇は次々と矢継ぎ早につぶれていくものになっているのであり、それは常に意識がフルで働き続けている状態だ。
シングルタスクの深みを追うのではなく、浅くともマルチタスクをそこそこクリアしていくことが正義とされる時代だ。
そんな時の渦の中で、いかに安定して立脚すべきなのだろう。